2011年04月10日
概念と尺度
時を自分でつかむことは不可能なことである。昨日という時を操作したくてもどうにもなるわけではないし、明日という時をつかむこともできない。
ただ時の方がやって来るのを待つだけで、時に対して我々は無作為である。
そもそも時という観念が人が作ったものであり、それが流れるように思えるのも人ならではのことだ。
大きさが目で見えるわけでなくある尺度により認識するだけである。
同じように心というものも到底目に見える存在ではない。あるCMで「心は見えないが心遣いは見える」というのがあったが、心はもちろん、思いを広げることの大きさ、広さ、深さは果てしなく、尺度があるわけではない。悩みの数は数えられても、一つ一つの深度は尺度があるわけでもないし、追いかけられるものでもつかめるものでもない。
思うことのそれぞれが宇宙という得体の知れない存在なのだろうか。
考え始めるとそれこそとどまることを知らないわけだが、せめてそのようなことを考えなければ、また書きつづられねば今私がもう一つの見えない存在「時」というものを待つことはできないのだ。

ただ時の方がやって来るのを待つだけで、時に対して我々は無作為である。
そもそも時という観念が人が作ったものであり、それが流れるように思えるのも人ならではのことだ。
大きさが目で見えるわけでなくある尺度により認識するだけである。
同じように心というものも到底目に見える存在ではない。あるCMで「心は見えないが心遣いは見える」というのがあったが、心はもちろん、思いを広げることの大きさ、広さ、深さは果てしなく、尺度があるわけではない。悩みの数は数えられても、一つ一つの深度は尺度があるわけでもないし、追いかけられるものでもつかめるものでもない。
思うことのそれぞれが宇宙という得体の知れない存在なのだろうか。
考え始めるとそれこそとどまることを知らないわけだが、せめてそのようなことを考えなければ、また書きつづられねば今私がもう一つの見えない存在「時」というものを待つことはできないのだ。

Posted by 有旅 at 22:31│Comments(0)
│雑感